みし☆れき

静岡県三島市を中心に、地域の歴史を深掘りしていくブログです

【三島の昔話】悲しくも温かい孝行犬のお話

今回は幕末の頃から三島宿に伝わる、円明寺(えんみょうじ)の孝行犬のお話です。

円明寺の孝行犬のあらすじ

孝行犬の像


時は幕末。現在の芝本町にある円明寺というお寺の本堂の床下に、母犬と5匹の子犬が住んでいました。
母犬は多摩(たま)、子犬は登玖(とく)、都留(つる)、摩都(まつ)、左登(さと)、富寺(ふじ)という名を与えられ、住職や町の人々に見守られながら暮らしていました。
ところが、万延元年(1860年)2月12日、子犬の富寺が病死してしまい、母犬の多摩も病気になってしまうという不幸が親子を襲います。
それを見た子犬の都留と左登は母犬のそばで看護をし、登玖と摩都の二匹は町に食べ物をねだりに行きます。
与えられた食べ物を食べようとしないで持ち帰る二匹。それが数日間にわたったので、町の人が不審に思い床下の様子をうかがうと、子犬たちは病気の母犬をいたわり、養っていたのでした。

必死の看病を続ける子犬たちでしたが、ついに7月29日、母犬の多摩が亡くなってしまいます。
子犬たちは三日三晩母犬のそばを離れず、悲しみの声を上げ、その声は聞く人々の胸に迫ったといいます。
母犬埋葬後も子犬たちは数日の間、母犬の墓側を守り続けました。

親孝行を尽くした子犬たちでしたが、母を亡くした悲しみのせいか、その後相次いでたおれ、最後に残った左登も文久二年(1862年)8月24日にとうとう亡くなってしまいました。

当時住職で犬の親子を見守り続けていた日空上人が、これは犬にもなさけ深い心があること(狗子仏性)の表れだ、と感嘆し、母子六匹のために石碑を建て、その純情を表彰して世の人のために戒めとしたといいます。

その後の孝行犬

その後、この話は江戸の絵師に錦絵として刊行され、大評判になったといいます。
また、当時の国学者の鈴木重胤が三島に宿泊したときにこの話を聞いて強く感動し、一文を書いて旅籠大和屋の主人に与えて行ったという話も残っています。
また、2018年には「みしまえんみょう寺の孝行犬」という絵本も出版され、市内保育園や小学校などに置かれました。
孝行犬のお話は、今も三島の人たちに長く愛され続けています。

江戸時代の犬事情

今では家の敷地内や屋内で飼われている犬ですが、江戸時代はどうだったのでしょう。
孝行犬たちに飼い主はいませんが、お寺の住職や町の人々に名づけらていて、野良犬とも飼い犬とも言えないような扱いですが、当時の犬事情について見てみましょう。

幕末から明治にかけて日本を訪れた欧米人の記録から、当時の日本では飼い犬も放し飼いだったことがわかっています。飼い犬といっても今のようにつながれておらず、野犬同様に町のいわば公共のものだったことがわかっています。
彼らには縄張りがあり、それぞれの町、村を行動範囲としていた様子。
古く平安時代の宮廷には犬が住み着いていて、貴族の邸宅の縁の下で犬が死んだりお産をしたりしたという記録もあるようですが、江戸時代になってもその様子はあまり変わらなかったようです。
円明寺のような寺社やお堂の床下は、町の犬たちの格好の寝場所だったといいますから、三島の他の寺社でも犬たちが暮らしていたのかもしれません。
町の人々から見守られて、地域の犬は育っていったのかもしれませんね。

犬の名前

孝行犬に飼い主はいないものの、犬に名前がつけられている、という点も興味深いです。
いつから犬に名前をつけるようになったのかは分かりませんが、この犬の親子が町の犬として名前を与えられていることから、人々から大事に見守られていたことがわかります。

犬の名前については、明治三十五年(1902年)9月27日の朝日新聞の「犬の名」という記事に

昔は翁丸とか太郎とか虎とか熊とか、時代によって違ったことは違ったが、ジミーとかジャッキーとかポチとかいうのは聞かなかった。

とあるので、犬に名前をつけるという行為自体は江戸時代にも普通に行われていたと推測できます。

余談ですが、明治六年(1873年)「畜犬規則」が東京府で規定され、各府県に広がったことで、具体的な飼い主のいない犬はすべて野犬と見なされ撲殺されるという、犬にとってはつらい出来事がありました。そのために日本に日本純粋の犬の種類が少なくなり、西洋種の犬が増えていきました。西洋種の犬が増えたことで、犬の名前も洋風の名前に変化していき、その代表例が「ポチ」でした。
「ポチ」といえば童謡のはなさかじいさんの犬ですが、昔話なのに犬の名前が洋風ってちょっとおかしいですよね…?
これは、歌がつくられた当時、犬の名前=「ポチ」が流行していたのをそのまま採用したから、というのが実情のようです。

円明寺に行ってみよう

 

円明寺は通りから少し入ったところにあります。

三島信用金庫本店の向かい側の道(一方通行で車両は交差点側から入れないので注意が必要)に入り、しばらく行くと左側に円明寺があります。

円明寺入り口

こちらのお寺は明治10年1878年)3月、火事で類焼してしまい、三島にあった樋口本陣の正門を山門として移築しています。
本陣は現在は碑が残るのみになっていますので、貴重なものになっています。(山門は市指定文化財
孝行犬のお墓と合わせて見学してみてください。

円明寺山門

なお、孝行犬のお墓の複製が楽寿園内の三島市郷土資料館前にもあります。

今回参考にした本

『三島宿』 三島市郷土資料館(図録)
『ふるさと探訪』 三島市郷土資料館
『みしまえんみょう寺の孝行犬』 孝行犬絵本制作委員会 園明寺
犬の日本史 人間とともに歩んだ一万年の物語』 谷口研語 吉川弘文館
『犬たちの明治維新 ポチの誕生』 仁科邦男 草思社

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はじめまして。日本史と地元を愛するみほこです。
このブログでは、静岡県三島市とその周辺の歴史にまつわる様々なことについて書いていきます。

今日は少しだけ私の自己紹介を。
私は学生時代には日本史学を専攻していました。
学芸員の資格も持っていますが、一度も活かされていません…笑
現在は、博物館のボランティアとして活動準備中です。その準備をする中で地元の歴史を知りたい!ほかの人にも知ってほしい!という思いが強くなり、このブログを立ち上げました。歴史は本当に奥が深いので、一つ一つ勉強しながらのブログ運営となります。

歴史学を少し勉強した私個人としては、なるべく引用元がはっきりした情報を発信していきたいな、と考えています。なので、なるべく出典などは明記していこうと思っています。
発信した情報を史跡めぐりのヒントにしてもらっても良いし、はたまた自由研究につなげていただいても良いし、地域史を自分なりに調べてもらってもよいし。地域の歴史にいろんな方が触れるきっかけになるような、そんなブログになればいいなあ、と夢は大きく!考えています。

そんな私の昔からのモットーは「晴耕雨読」。
忙しい日々に追われてなかなか更新できない日もあるかと思いますが、のんびりお付き合いいただければ幸いです。